占い師「あそたにふみや」とは
5歳くらいのときが霊感のピークでした
私は、「義理人情」の家の娘として育ちました。ですから皆さんとは価値観が違うかもしれません。5歳くらいのときが私の霊感のピークでした。
色々見えてしまって、人の死期や病気を言い当てていたのです。予言したことが現実に起こってしまう。でもふつうの人は、科学的に証明できないことは否定したいんですね。
怖い、気持ち悪い、あるいは嫌悪感からか、人の死期を私がどんどん言い当てると、「そんなことがあるはずがない。あの家のふみやちゃんはうそをついている。家族が何かやっているに違いない」という噂が立ちました。やがて噂話は母の耳に入ることになり、母は近所付き合いの中で追い詰められてノイローゼになってしまいました。
私はそれを感じ取りました。子どもはお母さんの気持ちを敏感に感じ取りますから・・・。
母はそのころ毎日、ベランダから私を投げ捨てて、私がいなかったことにしたいという衝動が起こっていたのですが、その日が終わって、「きょうもこの子を殺さずに済んだ」と自分をほめる日々が続きました。
それを察知していた私はずっと、「お母さんごめんね。生まれてきてごめんなさい!」という気持ちでいました。
子どもは、どんなお母さんでも大好きなんです。ですから本当に「お母さんに悪い」と思っていて、どうして生まれてきたんだろうなと思う日々が続くうちに、言葉が出なくなってしまいました。
私が話すことが周り、とくに母によくない影響を与えるのですから、何をしゃべったらいいのかわからない。
うそをついているというつもりはないので、しゃべっていいことと悪いことの判断がつかなくなってしまったのです。6歳くらいのときでした。全然言葉が出なくなりました。でも、そのことによって私は守られたわけです。
今思いますと、しゃべれなくなるようにすることが対処法だったんですね。自分を守るひとつの手段だったのだと思います。
「バイバイ」が大嫌いでした
父はすごく「いい格好しい」でした。仲間を助ける義理人情の人でした。いい格好して人のためにお金を使うんです。父はいい格好していましたが、家の中は火の車でした。ですから母はお化粧して、夜になると働きに行っていました。母が出かけるとき、母にいてほしいから、言葉は出ないのですが、私は母の目の前に立ちはだかって「行かないで!」と訴えていたそうです。
そういうときはいつも、2歳年上の兄が私の手をぎゅっと握ってくれました。兄も無口だったのですが、ぎゅっと手を握ってくれたときは「大丈夫だよ」と言ってくれているんだと感じて、私は安心し、落ち着くことができました。
母が仕事に行くとき、私たちきょうだいは近所の家に預けられていました。その家に行くとき、兄が手をつないでくれていて、私は安心感に包まれていたのですが、ある日、近所の子どもたちが手をつないで歩いている私たちを見て、「きょうだいで手をつないで気持ち悪いんちゃう?仲良すぎやん」などとからかいました。すると兄は、咄嗟に手を離しました。「パッ」と離されたので、そのことが私には強烈にインプットされたようです。
後年、手を握ってほしいと思ってある人に手を差し出したときに握ってもらえなかったことがありました。そのとき、兄が握ってくれていた私の手をパッと離した瞬間に受けたショックが蘇りました。人から見たら何ということもないでしょうが、私にとってはあの瞬間が蘇ったことはたいへんなことだったのです。このようなトラウマは、みなさんもお持ちのはずです。
私はセッションを通して、お持ちでないかたといまのところ一人も会ったことがありません。
母はいつも「バイバイ」と言って仕事に出かけました。元々お気楽な性格で、根っから明るいんです。私が泣いていても「あれ?ふみや泣いてんの?行ってくるねー。バイバーイ」と言って、ご飯もつくらずに行ってしまうんです。ですから私は「バイバイ」が大嫌いでした。
突然亡くなった彼を25年間忘れられなかった
16歳のとき、同棲相手といいますか、パートナーができましたが、1年後くらいに別れることになりました。そして、次にできた彼は、交際中に突然亡くなってしまいました。スピリチュアルの世界では、「魂は死なないから、肉体が死んでしまってもずっと一緒だからさみしくないよ」という人が多い中、私は彼の肉体に触れたいと思い続けていました。
17歳のときから25年間思い続けていました。彼がいなくなって、ずっとつらかったのです。蓋を開けるのが怖くて、彼が死んだことを忘れていました。それが、私が42歳になった年のある日、彼が死んだことを思い出して、さみしい、会いたい、触れたい、抱き締められたいという気持ちにやっと向き合うことができました。そして、向き合うことができたおかげで、私は男性を拒絶する自分から解放されました。
年商2億円と破産
14歳のときに母が末期がんだと言われ、私は進学をあきらめて料理屋や水商売のお店に働きに行き、一家の大黒柱になっていきます。17歳から高級クラブ・スナックを経営して、やがて滋賀県で一番の売り上げになりました。母のためにがんばったのです。「人のために生きる」というのは自分に言い訳ができるんですね。自分のために生きていない自分に対する言い訳ができます。人のために生きるというのは、一見すごくがんばりやすいし、あまり抵抗なくできるものです。母は私が小さいころから自由な人で、彼氏をつくっていなくなったり、兄と二人置いてけぼりにされたりしたのですが、私はやはり母にこちらを向いてほしいわけです。母の喜びが私の喜びで、それらは共存してしまってわからなくなってしまう。
そんな生活を続けていて、母のためだと思うと、母が遊びに行くためのお金をなんとしても稼ぎたい。それが彼氏よりも旦那よりも大切になっていくんです。
自分が苦しんでいることにずっと気付かない。そうしているうちに、22歳のとき年商2億円を稼ぎ出しました。人を十数人使っていたんですが、育った家が商売もやっていたということもあって、商売に向いていたようです。
ところがその年、連帯保証人になって破産してしまいました。いわゆる「保証人倒れ」です。これも、「助けて」と頼まれると、それは私にとってご馳走だったからなんですね。
「人のため」という言い訳ができるから。保証人倒れで2億円の借金を抱えましたが、それは2億円稼げるからだと、いまでは誇りに思っています。
結婚し、あこがれの生活を手に入れる
19歳のときに結婚しました。主人はどんな私でも受け止めてくれました。私は小さいころからすごく敏感だったので、うつやパニック障害、帯状疱疹などをはじめ、精神性疾患のオンパレードでしたが「どんなふみやでもいいよ」といって、ずっと寄り添い続けてくれました。そこで私は、あこがれていた生活を手に入れることが出来ました。子どもが3人生まれて、ご飯をいつも家族一緒に食べられる。私は毎日泣きました。幸せで泣けるんです。一緒にご飯が食べられる、一緒に座っている。
こんな幸せはないと思って、結婚生活は10年くらいでしたが毎日泣き続けていました。主人は笑って「何で当たり前のことで?」「また泣いてるの?」と言ってくれました。「パパありがとうございます。ほんとにうれしいよ。ご飯たべてくれるだけでうれしいよ」と私はいつもいっていました。
私の父は刑務所にいたので、たぶん一緒にご飯を食べたことも、父に触れたこともなかったのです。その主人とも別れてしまいましたが、彼からは私の一生分の幸せをいただいたと思っています。
幸せな生活の中でも「がんばること」に依存していた
私は徹底的に依存していました。「がんばること」に。がんばってがんばって、がんばったら結果が出るから、がんばることへの依存がやめられなかったのです。
ですから、主人が専業主婦でいいと言ってくれても私は「専業主婦じゃだめ」。人から見える自分は、すごく幸せそうでなければならない。少しやぼったい格好をわざと選んだりして、人からはふつうの母に見えるように生きていこうと思っていました。そのうち、「カリスマ主婦」と言われるようになり、『主婦の友』や『すてきな奥さん』という雑誌にも取り上げられました。そこでは「人気のカリスマ主婦」となり、節約術や料理を教えたりと、徹底的に主婦を楽しんでいました。
しかし、母へのイライラが消えない。たとえば臨月になのに、自分は1円単位で節約しているのに、「お母さん、ヴィトンのバッグほしくない?」とか聞いてしまうんです。すると母が「ほしい!いますぐ買ってきて」と言うので、私は「待っててねー!」とか言って、大きなお腹を抱えて車で京都までバッグを探しに行くんです。やめられないんです。誰に止められても、自分がしたいから。そんな生活をずっと続けていました。いつも母の借金が付きまとうのですが、いま思うと、それに対処することが楽しかったんですね。そこに自分の価値を見出していたんです。
長男の「バイバイ」
これまでいろんなことがありました。43年間でいちばんショックだったのは、38歳のとき、当時18歳だった長男が突然、東京に行きたいと言って出て行ったときのことです。彼が家を出て行くなんて思ってもいませんでした。無口なその息子と駅まで行って彼を見送ったとき、最後に彼は後ろ向きで手を振って「バイバイ」をしました。その「バイバイ」が私にとっては一番つらかったんですね。
「家族に迷惑がかかる」と思って、6歳のときにしゃべれなくなりました。近所の人たちや保育園の先生にもひどくいじめられました。そして、彼が目の前で突然死にました。こんなにいろいろなことがあっても耐えてきた私が、たかが長男が旅立ったくらいでどうしてこんなに苦しいのか?と自分の中でもがいていました。
頭では、「息子が自立することはめでたいことだ」と思える母親にならなければいけないとわかっているのですが、どうしようもなく苦しいんです。
長男が上京するときの後ろ向きの「バイバイ」が私の胸を突いたのは、私が小さいときに、働きに行くときの母のあの「バイバイ」が影響していたのです。魂の記憶は7歳くらいに閉じると言われています。私の場合は7歳以前の「バイバイ」の記憶が胸を刺したんですね。
それで私はずっと人に「バイバイ」が言えませんでした。いまではかなり克服して言えるようになりましたが、それでもまだ少し勇気がいります。
個人個人の苦しみは決して比べられない
クライアントさんが車の色を黄色にしようか赤にしようか占いで見てくださいといらっしゃるとき、その人にとってはそれが真剣な悩みかもしれません。それと、自分の愛する息子さんや娘さんと会えなくなって苦しんでいる人と、悩みや苦しみの比較のしようがないんです。ですから私は、「あなたの悩みなんか軽いやんか」と言うことは絶対にありません。「その人がどう感じているか」だからです。
「ふみやさんだからやって来られたんでしょう?」とよく言われます。違うと思います。私はふつうの人から見たらたいへんな経験をしてきたかもしれない、珍しいかもしれない。それなのに、いま思い返しても息子が旅立ったときの苦しみというのが、いちばんつらかったんです。みなさんもいろんな体験をして、心の中にいろんな思いがあるでしょう。同じなんです。ですから、比べられないんです。
B面
「バイバイ」だけでなく、あるきっかけが原因で繰り返し起こる気持ちというのがありました。私はずっと控えめに生きていたので、自分を出す人を見ると腹が立ちました。
うらやましいだけなのに・・・。仕事場で活躍している人を見ると、「この人すごいね。嫌われるかもしれないのに何でこんなに前に出るんやろ」などと感じていました。これらは、自分が前に出たくても出られなかったという経験から来る裏返しの気持ちだったのです。
こうして自分のことを書いていると、私の半生は何とネガティブなB面ばかりなんだろうと思います。カウンセラーというのは、「私はA面ばかりですよねー、明るく行きましょうねー」と言っている姿がみなさんが抱くイメージかもしれませんが、実は私は真逆なんですね。こうした私のB面を「重い」とかネガティブにとらえられることが寂しいと思って、以前はオープンにできなかったのでしょう。
なんてみなさんは、けなげなんでしょう
不安なとき、兄がいつも手をつないでくれていた。それがある日突然手を離された。あのときのショックが潜在意識の中にあって、「また同じことが起こるんじゃないか」とつい思ってしまうので、ほしいものを「ほしい」と言うのが苦手でした。主人に「手をつないでほしい」とか言いたいのですが、怒られるかもしれないと思うと言えなかったのです。
でも、「言わない」と決めていたのは自分です。言ってみたら案外OKだったりするものです。「言えない自分」って苦しいですよね。それは自分の気持ちをないがしろにしているからなんです。みなさんが、ほしいものは「ほしい」と言えたらいいなと思います。
いまの私は何でも言えるようになりました。「あなたが好きよ」「会いたいわぁ」とか。それでもまだ自分で遠慮しているところがあると思っているくらいですから、みなさんはどれだけ遠慮していることでしょうか。私よりももっともっと遠慮しているんだなと想像すると、「何てみんながんばっているんやろう。
けなげやなぁ」と、とくに男性に対して思います。セッションのときの男性とふだんの男性では別人のようです。みなさん責任感を持って「仕事のできる自分」「がんばり続ける自分」「仕事をがんばるのは当たり前や」っていう中を生きていて、実はその裏でとても苦しかったんだ、という例はこれまでのセッションで多く経験しています。
リストカットと、救急車の中で降りたメッセージ
次男が5歳くらいのとき、あるきっかけがパニック障害等を誘発し、車を運転していても自分がどこを走っているのかわからなくなったりするようになりました。そんなある日、ついに私は発作的に次男の前でリストカットしてしまったのです。そのときの息子の顔をいまでもよく覚えています。大量に出血して気を失い、私は救急車で病院に運ばれました。その救急車の中で、たくさんのメッセージが降りてきました。
「使命があるよ」というメッセージでした。そして、「使命があるから、楽しいよ」と。天使が降りてきました。その天使は私にそっくりでした。そのとき、私はすごくうれしかった。死のうと思ったはずなのに、本当は死にたくなかったんですね、きっと。
景色を変えていくのは自分
そして入院生活をおくります。そこで霊と話をして、みんなが何回も生まれ変わっていることなどを聞きました。いろいろなメッセージが降りてきて、また、たくさんの不思議な現象が起こりました。私が変なことばかり言うものですから、麻薬中毒ではないかと疑われて検査されたり、拘束されたりしました。でも、そのような中でも、とても気持ちがよかったのです。「リセットされた」と感じました。そして、何よりも私が大きく変わったのは、いままでの人生に不快な気持ちがたくさんあったことを受け入れたからです。「私、幸せとかいっていたけど、けっこう不愉快だったなー」と。
退院しても、本当は周りの世界はなんにも変わっていません。でも、変わっているように見えたから、「周りって変わってないんやな。変わったのは自分なんや」って思ったんですね。「そうか!景色を変えていくのは自分なんや」と体感でわかりました。それまで本を読んでも頭に入らなかったのに、五感で感じて、実際に体験したことはすんなり入るんですね。魂をオープンにして生きていると、苦しいときにことチャンスがやってくるんだ、ということがわかりました。
17歳のときから占いの仕事はしていました。救急車の中で天使にあってから少しずつ占いの仕事を増やしていき、長男が駅でバイバイした38歳のころ、私はパートをしながら電話で占いをしたり、スピリチュアルのイベントに出展したりしていました。長男が家を出たのを機に、占い師に没頭しようと決心し、やがてスーパーの片隅で毎日占いをするようになりました。そして、現在に至っています。
伝えたいこと
私にできることは、その人に眠っている優しさに気付いていただき、遠慮なく優しい自分を迎え入れていただくことのお手伝いです。25年間で延べ3万人の方々を鑑定してきましたが、断言できます。お一人お一人全員が優しさに溢れた愛ある魂の持ち主だということを。たとえ家族や周囲から愛をもらえなくても、どこかであなたは護られ愛されている。死にたくなっても引きこもっていてもいい。
少し違う世界を見てみたいと思ったら、私と一緒に探検しませんか?あなたを救ってくれるドクターはあなたの中に眠っています。その優しい安心できるドクターと私の魂と交信しませんか?
私のオーラの色と、大好物の「おせっかい」
私はオーラ鑑定もしますが、私自身のオーラは紫とピンクです。オーラの見える人には必ずこれら2つの色だと言われます。疲れたときには少し赤が入ったりします。
紫にはスピリチュアリティ、ピンクは女性性のように思えるかもしれませんが、実は男性性の色で、自分で生きていくという意味もある色です。このオーラを保とうと努めました。そうすることによって、また私の大好きな「おせっかい」「人のために」ができると思って。この「人のために」ですが、以前は自分をすり減らして、自分に力がなくなっているのに無理矢理それを出そうとしていました。母のために「お母さんありがとう」「私を産んでくれた母は世界にひとりだけだからね。」と。
いまでは、自分にあふれているものを渡すだけなので、全然平気です。常に自分を充満させていますから。
感情と向き合い、感情を大切にしましょう
そこまで持っていくために私はどんなことをしたのでしょうか?まず、考えられることを手放してみました。それから、感情と向き合ったんですね。
そうしたら、とんとんとーんと、心が、魂が、成長しました。すごく早かったですね。そして、自分の中の自分への評価が上がりました。「感情と向き合う」。それだけでいいと思うくらいです。例えば、「幸せだなあ」「愛されているなあ」と感じたら、その自分の感情と向き合うんです。それから、泣きたいときは泣いてもいいんですよ、人間なんですから。
私は一瞬の感情を大切にしています。私の実感では、感情と思考・知識・理論を比べると、感情が100万だとしたら思考・知識・理論はたったの10くらいです。それくらい感情が、つまり感情と向き合うことが大切だと思っています。自分の感情を大切にする、自分の感情と向き合うということを続けてきた結果、私に何ができるようになったかというと、夢が簡単に叶うようになりました。そして、セラピストとして生活できる十分な収入も得られるようになりました。自分の感情と向き合い続けてきたからこそ、納得のいくセッションができる自分を保てるようになったのです。
それがクライアントさんに伝わって、深遠なる魂と繋がるお手伝いをしてクライアントさんから感謝をいただける。クライアントさんの願いを叶え、結果を出してお金が生まれる、感謝していただいた分だけ収入になるのだということもわかりました。
人は愛したい、優しくなりたいのです
夢を叶えてきました。小さいころからのセラピストになりたいという夢。そしてその仕事がうまく行くようになりました。それから、嫌いな人がほぼいなくなりました。いじわるをされたり嫌がらせをされたりするとちょっと腹が立ったり、悲しい思いをすることはありますが、それでも嫌いにはなりません。さらに、私のサロンには、私が会いたい人たちしか来ないんです。「私が会いたいと思っているからこの人が来てくれた」。そうすると、すごく愛しく思うのです。
でも表面では優しくなるのが恥ずかしかったり、自分が攻撃されたと思ったりすると、仮面をかぶっていないとやっていられない人がほとんどです。会社でもどこでも、言いたいことを言えないという人が多いでしょう。言いたいことは言った方がいいのです。相手が怒ったら、「怒っているんだなー」と素通りしてしまえばいい。
サロンに来る人たちは口ではネガティブなことを言ったりしますが、魂は全然違うことを思っています。私がこれまで3万人の人に会ってきて感じているのは、人は人を愛したいんですということ、そして、優しくなりたいんですということです。魂はみなそう思っています。
心の奥の魂のほうがずっと大きくて、「考え」はちっぽけです。その魂が開くときがあります。例えば洗い物をしているとき、車の運転など何かに集中しているとき、トイレやお風呂でリラックスしているとき、眠る寸前などに、魂は一瞬開くんですね。その瞬間に自分に暗示を与えるとよいです。私はそのようなタイミングでインプットして、集客に結びつけてきたりしました。潜在意識をうまく使えば、魂に従って勝手に動いていくのです。
受け取ることを自分に許可してください
夢や願いを叶えるということを、私はごり押ししたいとは思っていません。夢を持っていなくてもいいし、願いを叶えなくてもいいですね。「夢を持たないのが夢」と言う人もいたりします。それぞれの人がオンリーワンで、自由です。でも、「本当の自分」というのはみんな絶対に持っているんですね。誰にでもあります。本人が、自分の思う幸せを受け入れることを許すということが大事です。受け取るチャンスを自分に許す、受け取ることを自分に許可するということです。
自分の感情と向き合い、大切にしていくと、自律神経のバランスも整ってきます。したがって、免疫力も上がります。私のセラピスト経験から見ますと、自分の感情と向き合っている人には、まず腫瘍ができません。うつ病を治すのも薬ではありません。精神科や心療内科に通って「薬で治った」と言ってきた人は、私が会ってきた人たちの中ではいまのところゼロです。うつ病にも、自分の感情と向き合ってそれを大切にすることが必要だと思います。
アウトプットしましょう
それから、アウトプットが大事です。ほとんどの人は、アウトプットすることが嫌なんですね。自分を見つめるのが・・・。特にネガティブな部分はアウトプットしたくありませんよね。
でもネガティブがポジティブを産むんです。ネガティブや苦労があったからこそ、明るいきれいな光が出るんですね。ですから、苦労という経験は最高なんです、すればするほど。それが薄いと、感動も少ないんです。悲しみは少ないほうがいいと思う人がほとんどでしょうが、悲しみがすくなければ喜びも少ないかも知れませんよ。すごくつらい時期から抜けたときは、すごい爽快感がありますね。そういうことなんです。
profile
1974年(昭和49年)大阪生まれ、滋賀育ち。
オモシロい大阪のおばちゃんの母と愛人12人を持つ父の間に生まれる。
- 14歳
- 母のがんが発覚、進学をあきらめ、母の代わりに料理屋や水商売で働き一家の大黒柱となる。2年間、毎年高利貸しの取り立てに追われる日々。 まだ子供だったため、下ネタなどにうまく対応できす、お酒の力を借りたため胃潰瘍など多くの神経からくる病気になるも持前の商才を発揮。
- 16歳
- パートナーができる。
- 17歳
- 2人目の彼氏を亡くす。
- 19歳
- 結婚。
- 20歳
- 長男が生まれる。
- 22歳
- 17歳から経営していた水商売が年商2億円になるも、友人の保証人倒れとなり倒産。占い師とパートをしながら主婦として暮らす。
- 26歳
- 次男が生まれる。
- 28歳
- 三男が生まれる。
- 31歳
- 離婚してシングルマザーとなる。
- 38歳
- 息子が一人立ちしたのを機に占い師としてやっていこうと決心し、現在に至る。
■資格所属一般社団法人 日本臨床ヒプノセラピスト協会(JBCH)
■日本ホリスティックアカデミー(JHA)にて下記、講座資格取得
年齢退行プロフェッショナルコース、前世療法プロフェッショナルコース、エリクソン催眠プロフェッショナルコース、ソマティックプロフェッショナルコース、エリクソン催眠プロフェッショナルコース、ヒプノセラピーベーシックコース講師
- ・ABH(米国催眠療法協会)ヒプノセラピスト
- ・TCマスターカラーセラピスト
- ・イシャラーナー インナーチャイルドカード認定プラクティショナー
- ・チャネラー
- ・占い師(四柱推命 手相人相 家相 名付け 九星気学)
- ・臼井式レイキマスターティーチャー
- ・トークセンマッサージ滋賀第一人者
- ・調理師
■メディア
毎週水曜日、インターネットの『スピリチュアルTV』の「スピリチュアル鑑定団」で、生放送にてオーラ鑑定、天からのメッセージ、前世からのメッセージ等を伝えていました。
毎週土曜日、インターネットラジオの『ゆめのたね』放送局のパーソナリティーとして「バディーMふみやの夜は感じNight」に出演していました。